<何故音楽を聴くのか?>と問われたら、<感動が得られるから>と答えます。
<どんな感動ですか?>と問われたら、<哀しみと美しさに対する感動です>と言います。
全ての芸術において、それが人間の避けられない宿命である「生と死」と向き合うとき、「哀しさと美しさ」があらわれ、より深い感動に繋がっていくようです。
老齢の今、そんな宿命がわが身に迫り,その「哀しさと美しさ」への情が、音楽を聴く事を求めてきます。
そして<死とは、あなたにとってなにか>と問われ、<モーツァルトが聴けなくなることだ>と答えた人のように、音楽に対する恋慕が生じてくるのです。
「私のクラシツク音楽の旅」は、個人的な感情の日記のようなものだと思って書いています。
趣味ではなく生活習慣の一つです。喰って、寝て、歩行して、音楽に耳を傾けて聴く、すべて同じレベルです。
だからクラシック音楽を高尚な趣味だと言われると、他人事に感じます。
音楽は、言葉・文学・絵画以前に存在しました。宇宙誕生・人間誕生の時から存在していました。荒地を抜け大樹を揺るがす轟音、草の葉の間をヒューと抜ける風の微音、最も自然なるものが音楽だと思います。しかし音楽演奏では、音は瞬時に消え去り、再現は出来ません。
私は音楽を聴く際、再現不可能な点に限りない愛着‣憧憬を感じます。「消え去るもの、失われてゆくもの」への想いは「哀しみと美しさ」であるからです。
万葉の時代から現代まで、詩人はそんな「哀しみと美しさ」を詠んできました。
詩人マリア・リルケは、愛と死を自分の魂に聴き入りながら、美しく表現しています。
<限りなき憧れの思いより>
限りなき憧憬の中から、 限りある行為が、
すぐに折れ曲がる噴水のように立ち上がる
だがいつもは口を閉じて語らぬ
私の悦ばしい力が
この踊る涙のような
消え去る水の中に あらわれる
また、詩人谷川俊太郎は、そんな情感を哀しく詠んでいることを知りました。(「こころ」より引用)
<そのあと>
そのあとがある
大切な人を失ったあと
もうあなたはないと思ったあと
すべて終わったと知ったあとにも
終わらないそのあとがある
そのあとは一筋に
霧の中へ消えている
そのあとは限りなく
青くひろがっている
そのあとがある
世界に そして
ひとりひとりの心に
音楽を享受することで支えられた人生に感謝し、<そのあと>があることを信じて。
そのⅢ 了
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