2015年4月18日土曜日

武満徹の美学を想う


 


 
                                                                              
 
演題Ⅰ ノヴェンバーステップ


指揮:小澤征爾

演奏:トロント交響楽団
鶴田錦史(琵琶)
横山勝也(尺八
)   

演題Ⅱ 弦楽のためのレクイエム  

    
指揮:若杉弘  演奏:読売日本交響楽団  

 
演題Ⅲ ピアノと管弦楽のための弧 第1部 第2部

 指揮:岩城宏之  演奏:読売日本交響楽団  


打楽器奏者の吉原すみれさんが、2014.11.21に東京・初台のオペ ラシティで武満作品集のリサイタルを開催するという記事を読んだ。

私事で恐縮だが、30数年前のこと、当時このオペラシティの設置と運営に奔走していた知人から、館長を誰にするかとの相談を受けた。私は武満徹さんが最適だと強くアドヴァイスした。武満さんが、日本の文化を世界に発信できる最適な人であり、このホールがその一端を担うことを説いた。

交渉は不調に終わり実現しなかった。ただコンサートホールはタケミツ・メモリアルと名ずけられた。その経緯はよく知らない。完成してオープン前の2階中央客席に座りながらの話であった。
オペラシティで武満特集という組み合わせが、忘れていた過去の些事を思い出させた。私には奇縁に思われる。

演題 Ⅰ
さて、1967年、「ノヴェンバー・ステップ」を初めて聴いた時の衝撃は忘れられない。
私はLP盤で聴いたが、小澤征爾の指揮するトロント交響楽団の演奏のなかに、武満が世界に通じる東洋の音楽を樹立したことを確信した。尺八と琵琶を取り込んで、東洋的な自然への憧憬と,清寧を見事に表現していると思った。
この曲では、特別の旋律的主題が無い。西洋音楽の音は水平に歩行するが、尺八の音は垂直に樹のように起る。邦楽の音はそれ自体が完結し、旋律は「間」によって関係づけられ調和している。
日本人である私には、それがよく分かるのである。

武満は言う、「生きることと死ぬこと、自己と他、個と全体、さらに厄介乍ら西洋と日本などという二律背反を肩に振り分けて歩く。真昼でも闇夜でもない薄明かりの長い道を歩いている訳だがそれはさほど単純な道程ではない」と。(武満著:「私たちの耳は聞こえているか」より引用)

武満には、日本と西洋という二律背反の中で、西洋に同化するのではなく、日本的な音楽を確立するという命題があった。
私の理解できる範囲で、次のような見解を述べている。興味深い武満語録を列記する。

  • 私は諸文化が収斂して、一つの束を作ると思う。そう期待する。西洋の楽器を使って、私は新しい日本の音楽を創り出そうと思う。
  • 西洋の音楽は論理的で弁証法的です。音は互いに関係しあって構成されています。しかし日本では、たった一音で、すでに音楽「そのもの」なのです。その音は自然を内包しうるし、時間とともに存在しているのです。 できることなら、琵琶を弾ける時代が続けばと思います。然しそれは出来ない相談です。そこで楽器の精髄を温存し、音色の本質を把握し、その音色を他の方法で表現するように努めなければなりません。

 

  • 石の摩擦が爆弾や原子力よりもはるかに創意に富んでいることを分からせることです。
  • 日本の能では、長い沈黙で打つ鼓があります。ある音の終わりと次の音の始まりとの間には、一つの持続があり、その持続のお蔭で音の変化が知覚されるのです。沈黙は音そのものなのです.
さらに武満はいう。「歌が生まれるのは、沈黙と、そして沈黙の中で最も恐ろしくてもっと絶対的なもの、すなわち死と向き合うためなのです。音楽には常に沈黙がたちこめています。音楽が私を悲しい気持ちにし、また感動させるのも、おそらくそのためです。」と。 (「音、沈黙と測りあえるほどにより引用)

これらの強い思考は、武満の音楽に耳を傾ける時、なるほど!とよく理解できるのだ。「ノヴェンヴァー・ステップ」を聴いた時、私は東洋人であることが自覚できた。この音楽に表現される「間」の感覚の心地よさに、日本の禅を想定させる静寂があり、東洋の美学と清澄な宇宙を感じたのである。

演題 Ⅱ
「弦楽のためのレクイエム」は、なんという鋭敏な感受性に満ちた音色の曲だろう。この曲には武満の内部に存在する声が終始聴こえる。故早坂文雄に捧げられたレクイエムだが、そこにはドラマティックなクライマックスもなく、沈黙につながる単調な旋律で終わる。

1959年に来日したストラヴィンスキーが、偶々この曲を聴き、「この音楽は実に厳しい、このような厳しい音楽があんな小柄の男から生まれるとは・・・」と絶賛して、一躍有名となった。又ハチャゥーリアンは「この世の音楽ではない例えば深海の底の様な音楽」と評した。

私は、武満の音楽表現だけでなく、かれの文章に東洋的美学を感じる。作家大江健三郎は武満の文章を、およそ同時代の芸術家によって書かれた、最上の文章であると賛美している。

例えば、「私にとって世界は音であり、音は私を貫いて世界に環のように続いている。私は音に対して積極的な意味づけをする。そうすることで音の中にある自分を確かめてみる。それは私にとって、もっとも現実的な行いだ。形作るというのではなく、わたしは世界へ連なりたいと思う。」
「世界はいつも自分の傍にありながら、気づくときには遠くにある。だから世界をよぶには、自分に呼びかける他にはない。感覚のあざむきがちな働きかけを避けて自分の坑道を降りることだ。その道だけが世界への豊かさに通じるものだから。」武満の美学の根底を見出すことが出来よう。

彼の美学は、作曲の楽譜にもあらわれていて、驚いた。「ピアノと弦楽のための弧 第一部」は3楽章からなる。まず楽章の命名が美しい。
1.Pile(パイル)
2.Solitude(ソリチュード)
3.Your love and the Crossing   である。
小説の題目みたいだ。さらに驚きは、彼の作曲楽譜(手書き)だ。まるで抽象画だ。クレーの絵,またはミローの絵図のようだ。こんな手書きの五線の楽譜を描く作曲家が過去存在したかどうかは、寡聞にして知らないが、凄いと思う。(3.Your love and the crossing)

演題Ⅰノヴェンバー・ステップ

  
かれの譜面を親友谷川俊太郎は「顕微鏡的な綿密さで、丹念なレース編みのような美しさ」と評する。

私は、過去に「音、沈黙と測りあえるほどに」、「音楽を呼びさますもの」、「私たちの耳は聞こえているか」の3冊の著作を読んいる。挫折を経験した頃だ。
今再読してみると、彼は音楽を語る以上に、人間(彼自身)の実存を語っている。中身が見事である。ありふれた哲学のきまり文句は皆無であり、自由の内に自らを律する基準を持つ者の沈黙を感じる。

演題 Ⅲ
武満と親交の厚かった詩人:瀧口修造が、「ピアノと弦楽のための弧」を聴き、武満に宛てた私信は、詩人の心が、この音楽の特質を見事にとらえている(船山隆:「響きの海へ」より引用)

弧について

<弧のうちそと、というよりも、弧のあとさきをおもうほど 私をとらえるものはない。
 今夜,「弧」を聴く。
弧とは星屑のように 降りそそぎ、噴出し、流れだし 消えてゆく
身動きの音そのもの、いや 不在の音というものか
そう思っているとき、一瞬、悔恨のようなものがわたしをとらえる。
引きしぼった弧から ひとつの矢が走り出すだろう
 それはもうひとつの弧を描いて 消えるだろう。
いや、すぎていった体験だけが 私にのこる

死のように 樹木の戦慄のように。
武満徹の手が しだいに影絵のように小さくなり 
ついに見えなくなったとき あなたが そこにいる。>

武満徹の美学は、東洋の美学を世界に知らしめているようだ。
今私は畏怖の念を抱きながら、海底の深みをみるような彼の音楽を味わっている.































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