2015年1月18日日曜日

W氏からのご訓導:「音楽との精神的交流」について



前頁に記載した「はじめに」は、前編「私のクラシック音楽の旅」で掲載したものである。そして前編の「おわりに」では「音楽を言葉で表現すること自体が無意味な行為であった.今は深い虚脱感に襲われている」と書いた。

驚いたことに、多数の人から読書後の感想を頂いた。私の想像をこえていた。

その中でも、音楽に詳しく、すごい多読家であるW氏の批評は、私のボンクラ頭にも浸みた。

内容は、以下の如くである。
「質量ともに、端倪すべからざるリスナーなのだが、枯淡の小説家によくある事実を数行並べて心の襞を見せない日記のようで、ホンネ(音楽から抽出した真実・心情)を拾い出すのに苦労した。くも膜下出血で死線をさまよい、この世に帰ってきたこの人は、人生とは一片のペルシャ絨毯を織るようなものだという。自分が満足できればそれでよい、私の絨毯は縦横に音楽があるが、恐らく凡人の駄作だという。
しかし、評者はこの人にもっと音楽との精神的交流を吐露して見せて欲しかった。選曲からしておよそ凡人にあらざる人が、どのような模様を描きたかったのかを示さないもどかしさを感じつつ、金糸銀糸の素材の豪華さ織り目の細やかさには感嘆した。
この人の音楽の記録をその後読んで、ウン?どこかで同じような人がいたぞ、と気づいて探し出した。
「ルノワールは語る」(成田重郎氏訳)である。<絵画の中に思想を求めてはならない。それがルノワールの信念であった。絵を描いて、ただ楽しむだけでいい。絵は観て,悦ぶだけでいい。それだけの事である。豊かな色を通して、美しい形を通して、芸術の創造に参加する。尽きぬ悦びが其処にある。それは何物にも代え難い。>
「この人のリスリングも音楽愛好者の一典型で、ルノワールと同じだ。、非凡な人である事がはっきりした。音楽に思想を求める人は閉口なのだ。」  面識のないW氏からの暖かいご訓導であった。

また、60年来の畏友Y君は、<人生は宝探しのようなもの。君は早くから何と素晴らしい宝と遭遇したことか。音楽と君とが紡ぎ出す果てしない歓びがひびいてくる。>との評で励ましてくれた。

今年卒寿の私には、もはや恥も外聞もない。毀誉褒貶など何の関係もない。私の人生などは恥の連続で繋がっている、羞恥の塊だ。「棺覆って位定まる」というが、実像を虚像化し、仮令神格化出来たとして、死後のそれは何であろうか。無意味なものである。地球自体がいつかは消滅するというのに。

私は職業は何かと問われて、「職業は寺山修司と答えた人もいた事を思い出す。私は常に私以外の何物でもない。駄作の絨毯の作者なのだと自嘲する。社会的人間を捨て一人で孤独を楽しむ自由が許される現代を愛しながら・・・。

今回「私のクラシック音楽の旅」そのⅡでは、W氏のご訓導を心に銘じ、<私と音楽との精神的交流>を、私なりに意識して書いてみました。 恥も外聞も捨てて!

 所詮、音楽教育を受けたことがなく、ただ自己流で聴くことのみに終始してきた私です、内容が、究極のところ音楽に詳しい人の言葉の孫引きにすぎない音楽談義になった事を、今は恐れています。

ご髙覧下されば幸いであります。

           

0 件のコメント:

コメントを投稿