2004.9.10 サントリーホール
演題:モーツァルト;第39番 K。543
変ホ長調
チャイコスキー;第4番 OP.36
へ短調
指揮:ヘルベルト・プロムシュテット
指揮者プロムシュテットは、当年87歳である。6月5日に聴いたスコダは86歳であり、衰えぬピアノに感銘を受けたが( 頁参照)、プロムシュテットの健在ぶりにはまた驚かされた。世界各地の名誉指揮者を務め、昨年10月にはウィーンフィルハーモニーの定期演奏会でブルックナーを指揮して好評を拍している。
さて、モーツァルトの39番は40,41番と並んで、最後の三大交響曲と呼ばれているが、私のバイブル「モーツァルトとの散歩」で著者アンリ・ゲオンは、次のように評している。
<世間は、この曲は笑っているとか歓喜に酔いはじめているとか言うが、この非凡な作は、深遠でありながら同時に軽快であるという前代未聞の天性をもっている。歓びとか、哀しみとか、反抗とか、疑惑とか,変心、確信、無感心・・・といったおよそ人間感情に与えられた呼び名は、あまりにも荒く、簡略に過ぎるので、モーツァルトの創り出した天使のような存在を微妙に表現するには適さなかった。その感情を、彼の芸術は実に見事に昇華させたのだ。この曲は笑ってはいない、それは活気ある、あるいは敏感な、音の天使らであろう。>と。
私は第一楽章、第2楽章の軽快な心地よい音楽に耳を傾けた。第3、第4楽章は活力に溢れ、オーケストラが唸った。あまりに聴き慣れた曲であり自分で指揮をしているような気分を味わった。

チャイコフスキーの第4交響曲は、彼の自伝的な告白の作品である。
この曲の作られた時期は彼の人生の転機となった。苦渋にみちた結婚生活の破局、モスクワ音楽院教職からの解雇があり、人生の破綻が創作へと直接に結合した。
私は楽譜が読めないし、音楽の専門的知識は全くない素人だ。
演奏を聴きながら不当な幻想や妄想に従い自由に物語を作ることが許される。私の特権だ。
その幻想を披露しよう。
第一楽章は、挫折の怒りが爆発した。冒頭からファンファーレで始まる。まるで自棄のヤンパチだ。踊り狂ってやろうとしている。
第二楽章に入るとやっと理性とやらを取り戻した。このままでは拙いぞ!途端にオーボエ独奏は四っの音の下降音程で全楽章の統一主題と結合して正常化し、情熱的なクライマックスで終えた。美しメロディだ。
第三楽章は、見事な弦楽器のピチカートだ。この旋律は絵画的な幻想を惹起させる。当日の午後、来日中のオルセー美術館所蔵の84点の絵画を観たが、クロード・モネの「アルジャントゥイユのレガッタ」に漂っていた水面の横線の切れ目のようだと、一瞬思った。
第四楽章はロシアの舞踏歌に続き、第一楽章のファンファーレを引き出し、交響曲に相応しい雄大な音楽を展開してゆく。心憎いばかりの大音響だ。
以上が幻想の一端だ。この日のオケは、プロムシュテットの指揮の見事さに呼応して、素晴らしかったと思う。私はのめりこんで脳味噌が全部演奏のため抉り取られたように感じた。
アンコールの声が鳴り止まなかった。良い日だった。
なお、
この演奏会の実録画が日曜クラシック音楽館で放映された。残念ながらTVの音では、全く曲の演奏が異なって聴こえて、平坦で単調な音楽にしか聴こえないのだ。やはり、なまの演奏でなくちゃ駄目だなァーと思った。
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