2014年9月6日土曜日

シューマン:「初めての緑」を聴いて

私は森が好きだ。
新春の芽葉枝には、生の息吹きがある。一説によれば、春や緑に憧れるのは、老化現象の一つだと言うが、私もその部類かも知れない・・・

シューベルトの歌曲は生の哀しみに満ち、死への諦観が流れているが、シューマンの歌曲には生の喜びがある。「詩人の恋」「女の愛と生涯」の歌曲、そして交響曲第一番「春」等、そこには愛するクララ・シューマンとの生に裏打ちされた人生が感じられる。

演題: ルチア・ポップ シューマン歌曲集

演奏:  ルチア・ポップ(ソプラノ)
          ジェフリー・パーソンズ(ピアノ)

この歌曲集は、清楚な、そして繊細な情感をもつルチア・ポップの名歌唱が聴けた。<もう春だ> <春の歓び> <春の挨拶> <雪の花> <私の庭> とシューマンの自然と春は続く。

「初めての緑」は、詩人ケルナーの作詞だが、<シューマンの音楽のリズムが伝えるのは、このかぼそい緑の萌え出る大地の鼓動であり、それを見て感動のあまり、森の大地に伏して、口ずけする人の胸のおののきである>と吉田秀和さんはいう。

「初めての緑」 OP.35-4

おまえ、わかわかしい緑よ、新しい草よ!
冷たい雪のために心までいてついたものたちが、
おまえのおかげでどんなに癒されてきたことか。
ああ、僕の心はどんなにおまえを待ち焦がれていたことか!

おまえは暗い大地からもう芽を出しはじめている。
おまえを見つけて僕の目はこんなにかがやいている!
森の奥のこの静かなところで、
ぼくはおまえを、緑よ、ぼくの胸と唇に押しあてる。

ぼくは辛くて耐えられないと、人々から逃げ出し、
苦しい胸の内をだれにも打ち明けることなく、
わかわかしい緑だけを胸に押しあてる。
それだけがぼくの心を鎮めてくれるのだ。

因みに、シューマンは著作「音楽と音楽家」の中で、芸術家が幾年もかかって思案したことを、素人の愛好家が一言で抹殺したりはできないと言っている。私はシューマンの音楽が良く理解できない,そして歌曲はシューベルトに限ると思っていたが、<春への憧れ>の旋律は、朴念仁の自分にも感動的に響く。
ピアニストのアルゲリッチは、「私こそ音楽」という映画で、<弾き終わって疲れず、逆に活力が生まれるのはシューマンだ。シューベルトは疲れる>と言っている。
シューマンの真髄は、「初めての緑」で聴かれる生の歓びなのかも知れない。

シューマンを語る時にクララ夫人を忘れてはならないだろう。シューマンは7人の幼児を最愛の妻クララに残して、47歳の生涯を終えた。その時クララは36歳だった。

葬儀当日のクララの日記が現存している。(B.リッツマン;友情の書簡より)
「埋葬の音楽が聞こえた。彼の遺骸は埋葬される。しかし私は、はっきりそれは彼の肉体のみで、魂は私とともにあるという確信があった。この時ほど、一人で生きる力を与えたまえと、神に祈ったことは無い。私の幸福は彼と共に去った。新しい生がすでに始まっているのだ。」と。クララは76歳まで生き、多難にして生きがえのある生涯を終えた。

作曲家ブラームスは、クララより14歳年下であったが、この夫妻の子弟として、クララを彼女の死の直前まで44年間に800通余りの書簡を交信しあった。高名な未亡人との友情は決して平坦ではなかったが、音楽という共通の人生の糧を分かち合う心の往還は途絶えることが無かった。(「クララとブラームスの友情の書簡集」参照)

私はシューマンの旋律とともに、ロマンチックな二人の人生と、情熱深いブラームスの人生を想う。クララの死は、ブラームスにとって癒えることなき魂の痛手だった。クララの葬式でひいた風邪が癒えることなく翌年にこの世を去ったのである。

あたかもシューベルトがジョルジュサンドの愛のもとで、哀しみと歓びのなかで夭折したように。
歌曲の名作曲家たちは、共に男女の愛の権化でもあったのかもしれない。





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