2015年3月1日日曜日

スコダの最後の演奏会を聴いて

  
2014.06.05        すみだトリフォニーホール




若き日のスコダ

指揮&ピアノ:   パウル・バドウラ=スコダ

管弦楽: 東京交響楽団

演題
MOZART:幻想曲二短調 K397

HAYDN:ピアノ・ソナタハ短調Hob.XVI-20

SCHUBERT:4つの即興曲 OP90、D899

MOZART:ピアノ協奏曲第27番 変ロ長調 
       K595

アンコール:
     MOZART:第27番第2楽章

     MOZART:グラスハーモニカのためのアダージォ
            


背筋をまつすぐに、ペンギンが急いで歩いているような歩調で、舞台に現れた私の青春時代からの恋人には、かってウィーンのピアニストの頂点を極めていた風格が漂っていた。

冒頭の幻想曲には、ややとまどいの様なものが感じられた。ロマン・ロランがの「精霊(ジェニイ)]と表現した曲だ。

二曲目のHAYDNは、モーツァルトが先生と仰いだハイドンがあり、モーツァルトを聴く思いがした。
モーツァルトの傑作「ハイドンに棒し弦楽四重奏曲6曲」は私の最も好きな室内楽であるが、この   曲も師弟関係がよくわかる。一卵性双生児だ。


三曲目のシューべルト:D899,OP.90は、圧巻であった。シューベルトは二つの即興曲集を書き、ともに1828年頃の作品であるが、旋律の中から無限の美しい歌を縦横に描いている。

スコダは、ここで若者の様な生気に溢れ躍動した。
指の動きに衰え等なく正確なタッチで4番を弾き終えた。第1番は歌謡風の主題が鮮やかに展開される。第2番は小さなリズムと感情が溢れる。
特に第3番のロマンチックで美しい歌を、見事に詠いあげた。その美しさに打たれ胸にこみあげてくるものがありここで私は泣いた。第4番は悲愴な旋律で静かに終った。
我が青春時代からの恋人は、感動した聴衆からのブラボーの声と拍手の渦の中で、本当に嬉しそうだった。

幕間の廊下に出ると若者が「俺泣いちゃった」、「俺もだ」と話している。驚いたことは聴衆の半分が若い人々であったことだ。私は今日の聴衆は8割方高齢者であろうと思っていた。


さて、待望のMOZARTの第27番である。
死の直前、35歳の年に作曲された「天国の門に立つ作品」と評されるこの曲は、私の学生時代からWESTMINSTER盤のスコダの演奏で1951年以来馴れ親しんできたが、今日63年前の恋慕が成就し、再現されるように錯覚した。

しかも予想外の展開が起きた。スコダが通訳者を従えて舞台に現れたのである。そして「拙著そのⅡ」(91頁)で記した下記と同じ内容を、ピアノの前に立ったままで,小節を弾きながら解説したのである。この種の本格演奏会では異例といえよう。

私の「そのⅡ」の記載は、<第一楽章は清浄な静けさ、第2楽章はラルゴ、最終楽章は、もはや哀しみを訴えようとせず、明るく澄んだ心境の中に{春への憧れ」を唱っている。>であった。
スコダは、まったく同じく「春への憧れ」にみるMOZARTの心境を述べた。私は63年前の恋人と胸中をうち明けて話しているように思った。スコダはいう。「そうだよ、モーツァルトは、春への憧れを口ずさみながら天国の門の前に立ったのだよ」と。

スコダは僕の為にラストコンサートで27番を弾いてくれたのだ!そしてモーツァルトと同様に「春を信じて、春を待つ」スコダの心境に想いを馳せた。変ロ長調の「聖なる世界」を鮮やかに描きだしたのだ。

見事な演奏であった。胸が熱くなり、目頭を押さえながら、私はロマンチックな思いに浸った。・・・63年前の邂逅から63年後に恋が成就する人生も存在するのではないかと・・・。


アンコールは、東京交響楽団を指揮しながら、27番の美しい旋律第2楽章を再現してくれた。

しかし鳴りやまぬ拍手にモーツァルトのK.617のアダージョを楽しげに、美しく弾いた。1791年ウィーンでの作品だ。

調べるとこの時期は作曲の少ない頃で
魔笛が生まれる3年前だ。恐らくスコダの想いの絡む曲ではなかろうか・・・。

私が泣いたシューベルトの3曲目を、私は今ケンプの演奏を聴きながら書いている。1965年盤LPだ、加齢とともにシューベルトが美しく響き、心に浸みて来る様になってきた。第3曲の美しい旋律が伸び伸びと展開されている。

こうして「パウル・バドゥラ・スコダのラストコンサート」は、私の音楽愛聴の記念碑となったような気がした。







 



         


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