2015.3.12 鎌倉市川喜多映画記念館
演題:「わが恋、わが歌」
出演;中村勘三郎・・吉野秀雄(詩人)
岩下志麻・・後妻(詩人八木重吉の未亡人)
中村賀津雄・・長男(病身・狂気の画家)
竹脇無我・・次男(父に反目する作家)
北村早苗・・長女(父に反目し結婚)
八千草薫・・先妻〈若くして死去)
沢村貞子・・母
緒方拳・・吉野の生徒で崇拝者
音楽;いずみたく
監督;中村登
詩人吉野秀雄の一生を、彼の哀しみの抒情詩を背景にしながら繰り広げ描いた映画である。
1969年の芸術祭参加作品であるが、この映画の存在を私は知らなかった。吉野の「やわらかな心」と教え子山口瞳の「小説吉野秀雄先生」、更に次男の「歌びとの家」の三つから脚本化されたという。
演題の「わが歌」の歌はミュージックの意味ではなく、詩(ボエーム)である。「わが愛」の「愛」はいわゆる男女の恋愛ではない。すべてに対する人間愛であろう。
そして映写の進行につれ、吉村秀雄の魅力溢れる人間像に私は涙した。物語の筋を述べることは易いが、今は本筋ではないので省略する。
。
吉野の人生・人間愛に、いつか忘れ去られている<大正ロマン>の本流と,あるべき人間の<純粋な像>を、私は、観た。
私は、音楽鑑賞で得る感動と同じものを感じた、「クラシック音楽の旅」だけが旅ではない事、感動は日常的に身近にあり、それは自身を純粋に保つことから生まれ、凛とした生き様につながるのではないかと思う。
「万物に対する愛」を抱けないものか?その時にこそ、大きな憎悪であれ何処かに消え失せるのではないかと。憎悪は愛のアンチテェーゼではないのだ
。
四面楚歌の家族なかで、吉野秀雄は、大いなる人間愛を貫いてゆく。その姿の哀れと美しさ。この映画をみる全ての人に感動が自然に生まれるだろう。
劇場を去る初老の夫婦が,<久しぶりで映画らしい映画を観たね>と話しているのが聞こえて来た。<私も・・・>と呟いで振り返った。
寒い夕空に、あかね色の雲が輝いているのが見えた。陽炎の哀しみはなく、明るく輝いていた。「わが恋、わが歌」の時代は終わったのだ、自己喪失の近年の世相と対比しながら。私は繰り返し自問した。「終わったのか?」
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