2014年8月21日木曜日

モーツァルト「クラリネット協奏曲・K622」を聴く


題目
MOZART クラリネット協奏曲 K622    

指揮者;ARTUR RODZINSKI

演奏:  ウィーン国立オペラ管弦楽団

 
  
クラリネット奏者;IEOPOLD WLACH


このレコードがアメリカで発売されたのは1954年で、私の大学時代ということになる。この時代のクラシック音楽愛好者にとって、WESTMINSTARのLPは貴重品であり、私もMOZARTの室内楽をこれらのLPで育てられ学んだと思う。

この想い出深いレコードのなかでも,今なお親しみを込めて見つめるジャケットは、
Ⅰ。パドゥーラ・スコダやデームスの協演によるモーツァルトの室内楽
Ⅱ。バリリ弦楽四重奏団、ウィーン・コンチェルトハウス弦楽四重奏団のモーツァルト
  室内楽で、モーツァルトの音の世界を教えてくれた名盤たちである。

さて、演題のクラリネット協奏曲だが、1791年10月に作曲され2か月後の12月5日35歳の生涯を閉じた告別の曲である。
私が2014年6月、スコダの最後のコンサートで聴いたK595ピアノ協奏曲第27番(拙書そのⅡ90頁参照)は1791年3月に作曲され、魔笛、レクイエムとともにモーツァアルトの告別の曲、天国の門に立った曲である。

「すべて最高のものは、それぞれの個別の領域を超える」とゲーテは言ったが、この曲の不思議な魅力は、私ごとき素人の論じる余地は無い。

吉田秀和さんの「いのちの響き」(中央文庫私の時間)から真に告白ともいえる文章の一節があるので、紹介する。


  • 何という生き生きとした動きと深い静けさとの不思議な結びつきが、ここには、あることだろう。動いているけれども静かであり、静穏の中に無限の細やかな動きが展開されている。ひとつひとつのフレーズは何ともいえぬ気品があり、雅致がある。ごく普通のイデオムで語られているのだが、ここには自由がある。
     ・モーツァルトにとっては音楽とは何だったのだろうか?彼の場合、音楽は単に人  
   間からというより、別のところから出ていたようだ。それがモーツァルトという人
   間を通過していくうちに、何ほどかの変化を受けはしただろうが。

   
  ・こんな辛い、そうして透明な曲はない。ここの旋律は流動的で、内面と外と境界 
   がないような形で、つまり、あるがままで、形でもあれば、心でもあるようにみえ
   る。そうして何かに向かって動いているのだ。しかし、それがどこを指しているの
   か、私には、わからない。もし何かがあるとすれば、無心の恍惚とでも呼びたい
   ものだ。これは、何らの企みも全く持たない音楽。およそ一切の目的意識から   
   解放された音楽である。

  ・クラリネット協奏曲の両端楽章は、ほどんとモーツァルト自身さえ超えている。
   ただこうゆう音楽を書いた者が、ほかにいないので、私たちはその作者をモー
   ツァルトと呼ぶことしかないといっても、さしつかえないだろう。

かかる吉田秀和さんの文を読んだ人は、何を感じ、何を想うのだろうか?私は評論家を超えた人間味溢れる吉田さんを想う。
40数年前のことであるが、私は同僚二人を後部座席に乗せて美ヶ原の峠を案内していた。CDでこの曲を鳴らしながら・・・。雲一つない青空の日だった。ほどんと音楽を聴かないという男が、<哀しい曲ですが、美しい音楽ですね>と呟いた。私は第1楽章と第3楽章のクラリネットの陰影がいいと思う。

モーツァルトが宇宙を支配していると思った。この曲の想い出として今も記憶している。


後になったが、ウラッハは1954年まで30年にわたってウィーンフィルの首席奏者を務め、柔らかく豊かな響きで、音楽を静かに語ると言われた。この録音を聴くとそのことが良く理解できる。

吉田秀和さんは、アルフレード・プリンツ奏者盤を推挙されているが、このウェストミンスター盤をお聴きになっていないのではと思う。私はこの曲が聴けることが生きている証であると感じています。


  







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