2015年9月14日月曜日

ハインツ・ホリガーと友人たち

 2015.9.11  青葉台フィリアホール

奏者  (写真上より)

オーボエ   ハインツ・ホリガー
ヴィオリン   堀米ゆず子
ヴィオラ    佐々木亮
チェロ     宮田大
フルート    フェリックス・レンリング

演題

F。E。トゥルナー:華麗な四重奏曲ハ長調OP33

Mozart:フルート四協奏曲第4番イ長調K.298

ロべルト・スーター:フルートとオーボエのための5つの二重奏

グザヴィエ・ダイエール:ノクターン

ハインツ・ホリガー:Mのための子守歌(無伴奏コーラングレのための) 

                         (無伴奏フルートのための)

Mozart:オーボエ四重奏曲へ長調K370

アンコール曲 同上第2楽章より

8月27日にサントリーホールで、ホリガー指揮による演奏会を聴いた。2週間後の今日である。ホリガー自身については、重複をさける。

オーボエは、リードの切り方ひとつで音色が変わるそうだが、ホリガーは素朴で
堅実さを感じる音を深く息を吸う肩の揺らぎにあわせ細く長く奏した。
モーツァルト作曲の2曲を除いては、はじめて聴く室内楽であったが、20世紀音楽の片隅を聴く思いがした。旋律が特異である。私にはそう感じられた。

最後のモーツァルトを聴いたときなぜかホッとした気分になった。ようやく何時もの音楽を楽しむことが、還ってきたのである。

堀米にしろ、宮田、佐々木と、ともに現代の日本を代表する演奏家であり、貴重な演奏会と言えるだろう。ホリガーの子守歌は、静かないい曲であった。この人の温厚な人柄が偲ばれた。

小さなホールだが音響がよくて、聴衆も満席状態で気分が良かった。





2015年8月30日日曜日

サントリーホール国際作品委託シリーズ・ハインツ・ホリガーを聴く



     2015.8.27            サントリーホール

指揮:ハインツ・ホリガー

管弦楽:東京交響楽団

演題:
ドヴュッシー:牧神の午後への前奏曲
グサビエ・ダイエ:2つの真夜中の間の時間
ハインツ・ホリガー:レチカント
ハインツ・ホリガー:デンマーリヒトー薄明りー
シャードル・ヴェレシェ:ベラ・バルトークの想    い出に捧げる哀歌

ソプラノ:サラ・マリア・サン
ヴィオラ:ジュヌヴィエーブ・シュトロッセ

ホリガーは1939年生まれ、76歳であるが、ソロ奏者としても、作曲家としても、近年も数多い賞に輝いている。誠実な人柄をおもわせる容姿である。また2017年には武満徹作品賞の審査員を委嘱されている。
更に、前衛第2世代として、現代音楽を牽引している。


「牧神の午後の前奏曲」
この曲は、後期ロマン派の音楽と決別し現代音楽の基盤の役割を果たしている。
マラルメの詩の印象を基にしたこの曲は、官能性やゆるやかな音で満たされている。フルート・ハープ・オーボエの響きが印象的だ。

「ダイエ」2つの真夜中の間の時間」(日本初演)
不規則にバラバラと夜中に時計が鳴るような音楽だ。そのように響く鐘の音である。弦楽器と管楽器が交代で表れる。そして突然音が停止(沈黙ではない)する。

ダイエによれば古代ギリシア哲学者のアイネスシモスの「昼とは何であろう?時間の問題なのか?陽光の量の問題なのか?2つの真夜中の間の時間の問題なのか?」と。

どうやら、聴く私の時間体験とは異なる世界のようである。

ホリガーの「レチカント」

<レチターレ>語る と <カンターレ>唄う と組み合わせた新しい作曲であるという。嘆きのヴィオラでツイマーマンのために作られた。

https://3.bp.blogspot.com/-fRKJdgj4VT8/VeAxVmEnrlI/AAAAAAAAbbA/-UyLhYBYz0A/s1600/Scan.BMP.jpg「デンマーリヒトー」薄明りー 委託作品(世界初演)

本年5月~6月に過去皇居そばの公園で作った5つの俳句(後記参照)を基に作曲された。友人ヴェレッシェの死と心の友であった武満徹の想い出に捧げる歌でもある。

「ベラ・バルトークの想い出に捧げる哀歌」

バルトークの死は、ブタペストに感動的な嘆きを生んだ。過行く時代の終わりへの哀歌であることを願うという。(ホリ ガー著より)

5つの俳句ホリガー作)

1.カラスの目、まっすぐに

薄明りをはね返す

なく、涙なく

 

2.薔薇、夕べに咲き

  夜露、夜に凍える

「自らを守れ、美しき小さな花よ!」

 

3.落陽

カラスは掘るー、誰の墓を?

お前は知るー、明日に

 

4.深い暗い水にかかる

濡れた木の橋

教えておくれ、あの世とは何なのか?

 

5.赤い夕べの空の

孤独な小さな雲

魂を連れてゆく、故郷へと
 

https://3.bp.blogspot.com/-munF-EWhmI4/VfP1eYFfVwI/AAAAAAAAbcY/eO53FcCuPTY/s320/Scan.BMP.jpg
 

私は現代音楽を聴く機会が少ない。振り返ると記憶にあるのは、1997年フィレンツェ音楽祭で、現代音楽作曲家4名の演奏会を、アルツール・タマヨの指揮で聴く機会があった。ガルニエリ、フェデレ、マンゾーニ、ベルグの4名だ。すべて初演であり、曲ごとに作曲家が舞台に上がり簡単な挨拶をした。私には奇妙な音の連続に聞こえ、ポカンとした覚えがある。その後日本で20世紀音楽を聴く機会があったが途中退場した。苦手だったのだ。

しかし、今回の演奏会は、今までの記憶と異なり、心地よい旋律や、音の響きが体で感じられた。少なくとも抵抗は皆無であった。私にはそれが何に起因するかわからない。ふと武満徹の音楽との比較を考えてみた。しかし、武満の世界とは明らかに異なっている。私の中に新しいジャンルが生まれているのかも知れない。

2015年8月10日月曜日

岩波映画「ゆずり葉の頃」を観る

2015.6.10    岩波ホール

監督:岡本みね子(故岡本喜八の妻・七六歳)


配役

小川市子=八千草薫

宮謙一郎画伯=仲代達也

市子の息子=風間トオル

その他;岸部一徳、竹下景子、


音楽:山下洋輔


第36回モスク国際映画祭特別招待作品のこの映画は、昔の記憶を支えに生きて来た老女市子の熱い想い出とともに
始まり、ひとのぬくもりに詩的なたゆたうような時間と感動を与える。

優れた芸術は、音楽にしろ絵画にしろ見る人に無限の人生讃歌を生み出させるものだ。
物語は市子が幼いころ、こころの通い合った少年と、想い出の水辺で誓いを立てたが、少年はその誓いを実現させ今は国際的な画家となっていた。
水辺の想い出は、彼の代表作たびに。60数年前の想いを
胸に秘め、軽井沢での宮謙一郎展を観ようと家族に告げず
、市子は旅に出る。毎日展示情を捜すが目的のえは展示されない。いちぶが毎日展示替えとなることに希望をもつ。

市子の執着が奇跡を起こす。毎日立ち寄る喫茶店主が宮謙一郎に逢わせるというのだ。市子は全てを隠して、今は盲目となっている宮画伯の自宅を訪れ一ファンとして逢い、画伯の居間に飾られている「想い出の絵」にみいる。宮にとっも最も大切な絵であったのだ。歓談し、二人はダンスを楽しむ。盲目の宮は市子の絵を描きたといい、触感で確かめる。
仲代達也の演技が光る。

別れの時が来て、市子は宮夫人(フランス人)に、水辺で少年が呉れた想い出の小石を手渡し去る。
夫人から渡された小石を手にして、すべてを理解した宮画伯は号泣する。

帰路迎えに来た息子に市子はいう。ゆずり葉はまだ生気があっても、若葉が出ると緑葉のまま落葉し土に戻るのヨと・・・

センチメンタルな物語を超えた、リアルな一つの人生を、76歳の岡本喜八夫人は再現させたと思う。八千草薫の味のある演技と山下洋介の音楽も良かった。いつまでも心に残る映画だ。







2015年7月20日月曜日

「アンドレア・ロスト」 ソプラノリサイタルを聴く

2015.7.18   横浜みなとみらいホール

出演: アンドレア・ロスト(Andorea Rost

               ピアノ:石野真穂

演題                                  

  モーッアルト:「フィガロの結婚」より

            愛の神よ

                    とうとう嬉しい時が来た~
                   恋人よ早くここへ

  ドニゼッティ;「ドン・バスクワーレ」より

            騎士はそのまなざしに

            「愛の妙薬」より

            さあ受け取って、あなたは自由よ

  グノー;「ファウスト」より 

            宝石の歌

  チレア;「アドリア―ナ・ルクヴォルール」より

            私は創造の神のいやしい僕

プッチーニ;「トスカ」より

            歌に生き、愛に生き             

              「トゥランドット」より
            お聴きください、ご主人様

  レオンカヴァッロ;「道化師」より

             鳥の歌

  プッチーニ;「蝶々夫人」より

             ある晴れた日に

  アンコール; 恋とはこんなものかしら(フィぷガロの結婚・ケルビーノ)

             私のお父さん(プッチーニ:ジャンニ・スキッキ)


ハンガリー生まれの世界的マドンナのロストは、俳句の境地が好きだという日本びいきで、
<自分を日々省みることや、凝縮された美の感覚など、日本人とハンガリアンは似ています>
という。

世界の有名歌劇場ウィーン国立歌劇場・ミラノスカラ座・パリオペラ座・メトロポリタンオペラ座・コヴェントガーデン王立歌劇などをすべて制覇したこの人は、透明な高音と激しいドラマチックなココラトゥーラによりオペラの楽しさを味わせて呉れた。

私は久しぶりに声楽ソロリサイタルを聴いた感じがあり調べてみたら、海外アーチストでは2002年のR・フレミング以来聴いていないようだ。久しぶりにオペラに対する回想が蘇った。

さてプログラムの前半は、彼女の過去の名演奏で世界を驚かせた歌手人生のうちから、得意中の得意のオペラからの選りすぐったプログラムとなっている。

「フィガロの結婚」からの2曲はウィーン国立歌劇と専属契約を結ぶ契機となった因縁のオペラだ。
冒頭の伯爵夫人のアリア「愛の神よ」は、心が離れてしまった夫への哀しみの痛切な思いを清登なラルゴで聴かせ、「恋人よ、早くここへ」ではスザンナ役を唄った。

一曲目のあとで、会場の気分を和らげるためか、過去の出演で装置舞台を壊してしまった失敗談
をした。話し方も堂に入ったものだった。

ドニゼッティの2曲は、彼女の非凡さを感じ、「愛の妙薬」はメトロポリタンオペラのデビュー曲であり
しっとりとした感情を表現した。

。「トスカ」からの3曲にはじまる幕間後の後半は、変化した。私に専門的なことは解らないが、発声の音色・色艶が際立って聞こえ始めたのだ。「鳥の歌」「ある晴れた日に」「私のお父さん」は、圧巻であった。哀しみの仕草も、感情注入も見事であった。

因みにアンコール曲「私のお父さん」の歌詞は、

<ねえ!やさしいお父様、あのかたが好きなの、すばらしい、すばらしいかたよ。
ポルタ・ロッサ通りに行きたいの 愛の指輪を買いに!
もしあのかたを愛するのが無駄なことならばポンテ・ヴェッキオに行きます。
アルの川に身を投げに!恋が私の胸を燃やし 苦しめるの!
どうぞ神様、死なせてください!
お父様、どうぞ、どうぞお願いです!> 
 であるが、父親を騙すための歎きであることを巧みに詠っている娘の心情をも表現し、レヴェルの高さを感じさせた。

ピアノの石野さんは際立った美人で伴奏もよかった。

帰宅して、ルネ・フレミングで聴き比べた。オペラの醍醐味に浸った。








   

2015年7月14日火曜日

N饗定期演奏会を聴く(1810回)

2015.5.20    サントリーホール

演題

1.シューマン:「マンフレッド」序曲 OP115

2.メンデルスゾーン:ヴィオリン協奏曲ホ短調 OP64
      アンコール BACH「ガボット」BW1006


3.ブラームス:交響曲第2番ニ長調 OP73

指揮 エド・デ・ワールト

ヴィオリン ギル・シャハム

指揮者は、予定のデーヴィッド・ジンマンが骨折手術のため来日不可となり、オランダ生まれのワールトが代役を務めた。彼は欧米の主要オーケストラを歴任し、特にオペラ指揮でバイロイト、パリ・オペラ、メトロポリタンで大成功を収めているという。N響にも過去3度共演している。

ヴィオリン奏者のギル・シャハムは、54歳だが10歳でデビューしコンクール優勝後多岐にわたり活躍、使用楽器は1699年製ストラディヴァリウス「ポリニャック伯爵夫人」である。

1.シューマンは詩と音楽の融合が作曲理念であった。
「マンフレッド」序曲は、不倫の恋人を死に至らしめたマンフレッドの魂の放浪が音楽となり、そして「自己忘却と無」に到達する。
冒頭3回くりかえされる和音が心の動揺を告げ、最終に魂の救いが示され平穏な響きで閉じる。(藤本一子氏の解説参照)
シューマンは妻クララに、この原作バイロンの劇詩を朗読し、感動の涙をとともに作曲、完成後指揮する姿はマンフレッドその人の様だったという。

2.弦楽とティンパニから始まり、独奏ヴィオリンの高い音域の旋律は美しく自然で万人に知られ親しまれている有名な曲だ。生涯裕福であったメンデルスゾーンが、プロイセンの聖職者達と対立し
失意の静養中に書かれたこの曲は新しい境地への飛躍であったに違いない。
ベートーヴェンのヴィオリン協奏曲をアダムとするならば、この曲はイヴであるとベネットはいうようにロマンテック楽派の頂点というべき傑作である。
美しい女性の曲線美のような、そして強烈で華麗な躍動感をストラディヴァリウス「ポリニャック伯爵夫人」は、深みのある音域で示した。ギル・シャハムは前後3歩位を動き回りながら軽快に、見事に弾きブラボーの繰り返しに、バッハの「ガボット」を弾いた。好青年らしい態度だった。


3.ブラームスの交響曲第1番はベートーヴェンの5番「運命」を、k




 

2015年6月20日土曜日

N響定期演奏会(1813回)を聴く

2015.6.17    サントリーホール

指揮=尾高忠明

ピアノ:小山実雅恵

演題

チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番 変ロ長調 OP23

           アンコール:ラフマニノフ

ラフマニノフ:交響曲第一番 ニ短調 OP13


指揮者尾高は、旋律を悠々伸び伸びと歌わせるので、歌謡性のある曲では特にいい音楽を醸し出す。だから
チャイコスキーもラフマニノフも得意の様だ。

ピアノ協奏曲第1番は、オーケストラとピアノが対話する。
優美な郷愁をさそう二つの主題がカデンツァを経て
クライマッツクスを迎える箇所はうっとりする。

小山実雅恵は、チャイコフスキー国際コンクールとショパンコンクールの両方に入賞した日本人唯一のピアニストだ。特にロシア音楽を得意としているようだ。堅実な弾き手と思った。

ラフマニノフの交響曲第一番は、1897年の初演は酷評のもとにおわり日の目を見たのは、死後の1945年図書館でこの楽譜をみた音楽学者
が総スコアを復元した時であった。ソヴィエトとアメリカで復演され、特に1948年オーマンデイ指揮によるフィラデルフィア管弦楽団による演奏でその地位を確立した。

死後数年を経て、残されていた楽譜が発見され、世に認められた例は数多いが、世人は天才の墓に線香をあげることには疎いものだ。

2015年5月21日木曜日

[はじめに]

    高齢の今、生きていて良かったと思う時があります。

詩人ホイットマンは、<良い音楽や読書に会った時、あと700年生き延びて生を極めたい>
と言ったという。
 
 
最近同じ感慨が私を襲うことがあります。自己の生への止み難い欲望が私の中に潜在しつづけているようです。

所詮、音楽的な感動・体験は、個人的なものであります。


音楽は様々な感動を私に与え、私の生の中で生まれ、浸透し、ひと時は離れても、再び戻ってきました。

くも膜下出血の病床で、生死を彷徨い、屈折した身体の後でも、<生きていて良かった>と思ったことが多々ありましたが、そこには、音楽での感動の蘇りがありました。私はその救いをバネにして生き永らえて来ました。もしそれらの感動が無ければ生きられなかったと言っても過言ではありません。

振り返ると、私の人生がもつ限られた貴重な時間の多くが、音楽に割かれ、彩を添えてくれたことに気がつくのです。


生きることの意味を求め、放浪の時、仮想が空間をさまよう時、音楽を聴くことが自分を聴くことでもありました。

残された時間に限りが見えてきた今日、音楽は、私にとって有意義な響きと啓示が聴こえて来る手段であり、実に、音楽を語ることは、私の唯一のカタルシスなのです。

「音楽は、一切の知恵・一切の哲学よりも、さらに高い啓示である」とベートーヴェンは言いました。
 そうだ、音楽によって自分を聴き、奏でよう。より高い感動と、啓示と、生を味わうために!






ヴァンスの教会堂

2015年5月1日金曜日

新ダヴィッド同盟演奏会を聴く

2014.11.2  水戸芸術館

演奏:新ダヴィッド同盟                

    ヴィオリン;庄司沙矢香
ヴィオリン;佐藤俊介
    ヴィオラ;磯村和英
    チェロ;クライヴ・グリーンスミス
    ピアノ;小菅優

演題:
    シューベルト;ピアノ三重奏曲第1番 変ロ長調 D898
    コダーイ:ヴィオリンとチェロのための二重奏OP7
    ブラームス;ピアノ五重奏曲ヘ短調OP34
     アンコール;ドヴォルザーク ピアノ五重奏曲イ長調OP81より

<一度は>と願っていた「水戸芸術館」に行った。招いて下さった家人の畏友に感謝しながら、いい音楽を鑑賞することができた。
まず磯崎新の設計は流石である。定員680席の小ホールであるが、舞台を囲んで扇状に客席が段々と繋がりゆったりとして音楽を聴ける。
初代館長は吉田秀和、現在は小澤征爾である。
新ダヴィッド同盟は、吉田秀和さんが、ロベルト・シューマンが夢想した架空の芸術グループの「ダヴィッド同盟の理念に共鳴し、同館の専属集団として結成した。今年で結成4年という。
旧約聖書のダヴィデにちなみ、<俗物に対抗し、新しい音楽の理想を確立しよう>というシューマンの気概は、吉田さんにも共通の願いであったと推測される。
さて、シューベルトのピアノ三重奏曲第1番は、私はWesteminster盤LPのスコダ、フル二エ、ヤニグロのトリオで聴きその明るい幸福感とロマンチックな情緒で満ちていて、好きな録音盤であった。

新ダヴィッドの三人は個性的なメンバーで、かなりの自己主帳をしたと思った。
「五重奏では、和を優先させるが、三重奏では自己主張は通常の事」と聞いたことがあるが、成程!と思った。

コ―ダイの曲は、ヴィオリンtおチェロという珍しい組み合わせで、自由な旋律を可能にしているようだ。彼はハンガリーの民謡を取り入れた曲を多く作曲したが、この曲もユニークな曲だ。主題の展開には奏者の高度な技術を感じた。私は初めてこの曲を聴いたが、現代抽象画を観る想いで聴き入った。

ブラームスの五重奏曲は、今日のプログラムで私が最も期待した曲であった。ブラームスはピアノ
曲を管弦楽風に作り、さらに交響曲まで発展させる手法をとった彼の音楽の特徴が表われて楽しい。ブラームスは、生涯で五重奏曲はこの一曲のみである。

この曲をクララ・シューマンの助言の基に作曲したが、クララは第4楽章の批評をブラームスに書き残している。(二人の関係については、拙稿「初めての緑」で詳述、「クララとブラームスの友情の書簡集」参照)

クララは「この曲は男性的な活気に充ちているが、難しい曲だ。私は精力的な演奏でなければ不明瞭に響くことを心配している。」と忠告している。

しかし、新ダヴィッド同盟は、精力的に、かつ活発に演奏した。最終章の輝く音の響きは、強い感動を与えるものであった。クララの心配を払しょくしたと思った。新ダヴィッド同盟には、最も適した曲だった。

帰路、水戸の千波湖の水面は、穏やかに夕霧に包まれていた。素晴らしい一日になったことに
感謝した。












2015年4月23日木曜日

N饗定期演奏会を聴く(1807回)

2015.4.22   サントリーホール


指揮者;ミヒャエル・ザンデルリング

ピアノ;ベルトラン・シャマュ

交響楽団;NHK交響楽団

演題

シューマン;ピアノ協奏曲イ短調OP。54

ブルックナー;交響曲第4番「ロマンチック」

「シューマンのピアノ協奏曲」が初演されたのは、愛妻クララのピアノによってであり、同伴者との共同作業で生み出された名曲となった。

第一楽章、冒頭有名な「クララの動機」が響く。第二楽章の「クララの動機」は、とりわけ美しく、シャマュは,淡々と弾いた。目を閉じて天井からの音響に聴き入るとショパンには無いような諦観に通じる哀愁を感じた。以前に書かれていた「幻想曲」を改訂したものという。

クララの日記には<やがてこの曲は聴衆を最高に満足させるに違いない。ピアノとオーケストラはこの上なく繊細に合し、お互いに片方なしには考えられない>と記している。

私にはシューマンは難解だが、彼の交響曲よりは、このピアノ協奏曲が好きだ。

私はブルックナーの「ロマンチック」は、ベーム指揮のウィーンフィル(1973年版)LPで聴いて来た。
ブルックナー自身がこの曲をロマンテックと名付け、「ロマン主義の白鳥の歌」と呼んだが、樋口隆一氏は<自然への憧れ、遠い昔への郷愁、神秘的な幻想が込められ、時代を超えて、私たちをそうした世界に誘ってくれる>と評する。

新しい楽想で盛り上がると思えば、再現部では寂しげな響きとなり、孤独な面を伺わせる。彼は俗世間から離れ音楽と信仰の生活を続けたのだった。
汚れのない無垢の音楽を感じるのは、第Ⅱ楽章の挽歌である。

70分に及ぶ長編だが、飽きず聴く歓びを味わった。さすがにアンコールなしで終わった。


2015年4月18日土曜日

武満徹の美学を想う


 


 
                                                                              
 
演題Ⅰ ノヴェンバーステップ


指揮:小澤征爾

演奏:トロント交響楽団
鶴田錦史(琵琶)
横山勝也(尺八
)   

演題Ⅱ 弦楽のためのレクイエム  

    
指揮:若杉弘  演奏:読売日本交響楽団  

 
演題Ⅲ ピアノと管弦楽のための弧 第1部 第2部

 指揮:岩城宏之  演奏:読売日本交響楽団  


打楽器奏者の吉原すみれさんが、2014.11.21に東京・初台のオペ ラシティで武満作品集のリサイタルを開催するという記事を読んだ。

私事で恐縮だが、30数年前のこと、当時このオペラシティの設置と運営に奔走していた知人から、館長を誰にするかとの相談を受けた。私は武満徹さんが最適だと強くアドヴァイスした。武満さんが、日本の文化を世界に発信できる最適な人であり、このホールがその一端を担うことを説いた。

交渉は不調に終わり実現しなかった。ただコンサートホールはタケミツ・メモリアルと名ずけられた。その経緯はよく知らない。完成してオープン前の2階中央客席に座りながらの話であった。
オペラシティで武満特集という組み合わせが、忘れていた過去の些事を思い出させた。私には奇縁に思われる。

演題 Ⅰ
さて、1967年、「ノヴェンバー・ステップ」を初めて聴いた時の衝撃は忘れられない。
私はLP盤で聴いたが、小澤征爾の指揮するトロント交響楽団の演奏のなかに、武満が世界に通じる東洋の音楽を樹立したことを確信した。尺八と琵琶を取り込んで、東洋的な自然への憧憬と,清寧を見事に表現していると思った。
この曲では、特別の旋律的主題が無い。西洋音楽の音は水平に歩行するが、尺八の音は垂直に樹のように起る。邦楽の音はそれ自体が完結し、旋律は「間」によって関係づけられ調和している。
日本人である私には、それがよく分かるのである。

武満は言う、「生きることと死ぬこと、自己と他、個と全体、さらに厄介乍ら西洋と日本などという二律背反を肩に振り分けて歩く。真昼でも闇夜でもない薄明かりの長い道を歩いている訳だがそれはさほど単純な道程ではない」と。(武満著:「私たちの耳は聞こえているか」より引用)

武満には、日本と西洋という二律背反の中で、西洋に同化するのではなく、日本的な音楽を確立するという命題があった。
私の理解できる範囲で、次のような見解を述べている。興味深い武満語録を列記する。

  • 私は諸文化が収斂して、一つの束を作ると思う。そう期待する。西洋の楽器を使って、私は新しい日本の音楽を創り出そうと思う。
  • 西洋の音楽は論理的で弁証法的です。音は互いに関係しあって構成されています。しかし日本では、たった一音で、すでに音楽「そのもの」なのです。その音は自然を内包しうるし、時間とともに存在しているのです。 できることなら、琵琶を弾ける時代が続けばと思います。然しそれは出来ない相談です。そこで楽器の精髄を温存し、音色の本質を把握し、その音色を他の方法で表現するように努めなければなりません。

 

  • 石の摩擦が爆弾や原子力よりもはるかに創意に富んでいることを分からせることです。
  • 日本の能では、長い沈黙で打つ鼓があります。ある音の終わりと次の音の始まりとの間には、一つの持続があり、その持続のお蔭で音の変化が知覚されるのです。沈黙は音そのものなのです.
さらに武満はいう。「歌が生まれるのは、沈黙と、そして沈黙の中で最も恐ろしくてもっと絶対的なもの、すなわち死と向き合うためなのです。音楽には常に沈黙がたちこめています。音楽が私を悲しい気持ちにし、また感動させるのも、おそらくそのためです。」と。 (「音、沈黙と測りあえるほどにより引用)

これらの強い思考は、武満の音楽に耳を傾ける時、なるほど!とよく理解できるのだ。「ノヴェンヴァー・ステップ」を聴いた時、私は東洋人であることが自覚できた。この音楽に表現される「間」の感覚の心地よさに、日本の禅を想定させる静寂があり、東洋の美学と清澄な宇宙を感じたのである。

演題 Ⅱ
「弦楽のためのレクイエム」は、なんという鋭敏な感受性に満ちた音色の曲だろう。この曲には武満の内部に存在する声が終始聴こえる。故早坂文雄に捧げられたレクイエムだが、そこにはドラマティックなクライマックスもなく、沈黙につながる単調な旋律で終わる。

1959年に来日したストラヴィンスキーが、偶々この曲を聴き、「この音楽は実に厳しい、このような厳しい音楽があんな小柄の男から生まれるとは・・・」と絶賛して、一躍有名となった。又ハチャゥーリアンは「この世の音楽ではない例えば深海の底の様な音楽」と評した。

私は、武満の音楽表現だけでなく、かれの文章に東洋的美学を感じる。作家大江健三郎は武満の文章を、およそ同時代の芸術家によって書かれた、最上の文章であると賛美している。

例えば、「私にとって世界は音であり、音は私を貫いて世界に環のように続いている。私は音に対して積極的な意味づけをする。そうすることで音の中にある自分を確かめてみる。それは私にとって、もっとも現実的な行いだ。形作るというのではなく、わたしは世界へ連なりたいと思う。」
「世界はいつも自分の傍にありながら、気づくときには遠くにある。だから世界をよぶには、自分に呼びかける他にはない。感覚のあざむきがちな働きかけを避けて自分の坑道を降りることだ。その道だけが世界への豊かさに通じるものだから。」武満の美学の根底を見出すことが出来よう。

彼の美学は、作曲の楽譜にもあらわれていて、驚いた。「ピアノと弦楽のための弧 第一部」は3楽章からなる。まず楽章の命名が美しい。
1.Pile(パイル)
2.Solitude(ソリチュード)
3.Your love and the Crossing   である。
小説の題目みたいだ。さらに驚きは、彼の作曲楽譜(手書き)だ。まるで抽象画だ。クレーの絵,またはミローの絵図のようだ。こんな手書きの五線の楽譜を描く作曲家が過去存在したかどうかは、寡聞にして知らないが、凄いと思う。(3.Your love and the crossing)

演題Ⅰノヴェンバー・ステップ

  
かれの譜面を親友谷川俊太郎は「顕微鏡的な綿密さで、丹念なレース編みのような美しさ」と評する。

私は、過去に「音、沈黙と測りあえるほどに」、「音楽を呼びさますもの」、「私たちの耳は聞こえているか」の3冊の著作を読んいる。挫折を経験した頃だ。
今再読してみると、彼は音楽を語る以上に、人間(彼自身)の実存を語っている。中身が見事である。ありふれた哲学のきまり文句は皆無であり、自由の内に自らを律する基準を持つ者の沈黙を感じる。

演題 Ⅲ
武満と親交の厚かった詩人:瀧口修造が、「ピアノと弦楽のための弧」を聴き、武満に宛てた私信は、詩人の心が、この音楽の特質を見事にとらえている(船山隆:「響きの海へ」より引用)

弧について

<弧のうちそと、というよりも、弧のあとさきをおもうほど 私をとらえるものはない。
 今夜,「弧」を聴く。
弧とは星屑のように 降りそそぎ、噴出し、流れだし 消えてゆく
身動きの音そのもの、いや 不在の音というものか
そう思っているとき、一瞬、悔恨のようなものがわたしをとらえる。
引きしぼった弧から ひとつの矢が走り出すだろう
 それはもうひとつの弧を描いて 消えるだろう。
いや、すぎていった体験だけが 私にのこる

死のように 樹木の戦慄のように。
武満徹の手が しだいに影絵のように小さくなり 
ついに見えなくなったとき あなたが そこにいる。>

武満徹の美学は、東洋の美学を世界に知らしめているようだ。
今私は畏怖の念を抱きながら、海底の深みをみるような彼の音楽を味わっている.































2015年4月13日月曜日

新日本フィルハーモニー交響楽団定期演奏会を聴く

2015.4.12    サントリーホール

演題


シェーンベルク: 5つの管弦楽曲 OP16

ヤナーチェク: シンフォニエッタ

バルトーク: 管弦楽のための協奏曲

指揮

インゴ・メッツマッハー

ハンベルク交響楽団の首席客演指揮者を務め、特に近・現代音楽に情熱を注いでいる指揮者らしいプログラムであった。

演題の3曲はともに演奏回数が少ない曲で、私はヤナーチェクのシンフォニエッタは、村上春樹の「1Q08」でテーマ曲だったので知っていたが、シェーンベルクとバルトークは定かではなかった。

今後新日本交響楽団の専属指揮者となり、その初舞台でもあるので、期待が大きい。

1.シェーンベルクの「五つの管弦楽曲」
  「予感」「過ぎ去ったもの」「和声の色調」「急転」「オブリガードの叙唱レチタティヴォ」の5つの標題がつけられて、シェーンベルクの生活の中で起こった妻との事件からの、彼の精神的内面が描かれている。
無調音楽は、十二音技法の体系的な理論もないというが、私は素晴らしいリズムの効果と豊かな旋律を感じた。

 2.「シンフォニエッタ」は、勝利を目指して戦う現代人の精神的な美や歓喜を作曲したとされる。
金管のみで演奏される冒頭のファンファーレは真に心地良い。

 3.バルトークはナチスから逃れるためハンガリーからアメリカに移住した芸術家だが、その生活は苦しいものだった。ボストン交響楽団の音楽監督出会ったクーセヴィツキ―の依頼で作曲した「管弦楽のための協奏曲」を、<過去50年を通して最高の傑作>とクーセヴィツキは絶賛した。

バルトーク特有の神秘的な音色の第1楽章、第3楽章のハンガリー民謡のエレジーは懐かしく、
終楽章のトランペットは力強い音量と高揚感に満ち、音楽を聴く私に暖かい幸福感を感じさせた。、


3曲に共通した無調音楽は、世紀末ウィーン時代の絵画にみられる革新主義者クリムトや、マーラーに見られるように装飾を剥ぎ取り真の姿をさらけ出そうという主張と重なり合っている。

そんな事を想像させながら、現実の屈折した日々に対し、鬱憤をはらしたような気持になった。

新指揮者のメッツマッハ―は今後も面白い音楽を聴かせてくれそうな気がした。







2015年4月12日日曜日

あとがき

<何故音楽を聴くのか?>と問われたら、<感動が得られるから>と答えます。
<どんな感動ですか?>と問われたら、<哀しみと美しさに対する感動です>と言います。

全ての芸術において、それが人間の避けられない宿命である「生と死」と向き合うとき、「哀しさと美しさ」があらわれ、より深い感動に繋がっていくようです。

老齢の今、そんな宿命がわが身に迫り,その「哀しさと美しさ」への情が、音楽を聴く事を求めてきます。
そして<死とは、あなたにとってなにか>と問われ、<モーツァルトが聴けなくなることだ>と答えた人のように、音楽に対する恋慕が生じてくるのです。

「私のクラシツク音楽の旅」は、個人的な感情の日記のようなものだと思って書いています。
趣味ではなく生活習慣の一つです。喰って、寝て、歩行して、音楽に耳を傾けて聴く、すべて同じレベルです。
だからクラシック音楽を高尚な趣味だと言われると、他人事に感じます。

音楽は、言葉・文学・絵画以前に存在しました。宇宙誕生・人間誕生の時から存在していました。荒地を抜け大樹を揺るがす轟音、草の葉の間をヒューと抜ける風の微音、最も自然なるものが音楽だと思います。しかし音楽演奏では、音は瞬時に消え去り、再現は出来ません。

私は音楽を聴く際、再現不可能な点に限りない愛着
‣憧憬を感じます。「消え去るもの、失われてゆくもの」への想いは「哀しみと美しさ」であるからです。
万葉の時代から現代まで、詩人はそんな「哀しみと美しさ」を詠んできました。
    

詩人マリア・リルケは、愛と死を自分の魂に聴き入りながら、美しく表現しています。

        <限りなき憧れの思いより>

    限りなき憧憬の中から、 限りある行為が、
    すぐに折れ曲がる噴水のように立ち上がる

    だがいつもは口を閉じて語らぬ
    私の悦ばしい力が
    この踊る涙のような
    消え去る水の中に あらわれる
 

また、詩人谷川俊太郎は、そんな情感を哀しく詠んでいることを知りました。(「こころ」より引用)

        <そのあと>

      そのあとがある
      大切な人を失ったあと
      もうあなたはないと思ったあと
      すべて終わったと知ったあとにも
      終わらないそのあとがある
                                                                        
      そのあとは一筋に
      霧の中へ消えている
      そのあとは限りなく
      青くひろがっている

      そのあとがある
      世界に そして
      ひとりひとりの心に


  音楽を享受することで支えられた人生に感謝し、<そのあと>があることを信じて。
             
                 そのⅢ 了




2015年3月29日日曜日

湘南高校吹奏楽部35回定期演奏会を聴く

 2015.3.29     藤沢市民会館ホール


演題

第一部

ゴッドスピード
知恵を持つ海
グローバル・ヴァリエーションズ
トロンボーン協奏曲「カラーズ」

第二部

旧友
アルヴァマ―序曲
第6の幸福をもたらす宿

第三部(演出ステージ)

Mrインクレデイプル
ジャパニーズ・グラフテイXV
アニメヒロイン・メドレー
サンバ・ベアー
吹奏楽の為の交響的ファンタジー「ハウルの動く城」

指揮・講師・トランペット奏者:関根志郎
  

吹奏楽を聴く機会の少ない私には、どこまでも明るく、大音響の演奏と
若い生徒たちが自主的に企画した演出に,明るい未来を想像できた。総勢175名におよぶ奏者達は、真に音楽を楽しみ、身につけているようで
我が青春では味わえなかった現代を満喫しているように思った。

本来は無縁のこの世界を、お嬢さんがOBとして特別参加している知人のご招待があってのことであった。

半可通のままに演題曲目を説明しよう。(当日のパンフレットを参照)

「ゴッドスピード」は、組曲「名誉・勇気・誓約」の3楽章からなる、「ゴッドスピード」は、成功を祈るよいう意味である。非常に華やかな曲である。150名に及ぶ奏者で舞台が
近く見え圧倒される。

「知恵を持つ海」は、和歌山の中学の委託によりつくられた「朝の海」を写実したもので、クラリネットのマウスピースで表現されるカゴメの鳴き声が響き、海の力強さとうつくしさの二面性を交互に表
していて面白い曲だ。

「カラーズ」はベルギーで作曲され、第一楽章「イエロー」は知恵、輝き、第二楽章「レッド」は勇気、意志、第3楽章「ブルー」は真実、平和、第4楽章「グリーン」は均衡のとれた力、調和と、色から連想される感情を表現したものである。トロンボーンのソロがいい。

「旧友」と「アルバァマー」は、仲間との想い出を、美しい旋律で聴かせた。

「第六の幸福…」は、人間には、長命、富貴、健康、徳行、天寿という5つの幸福があり、更にもう一つは、その人自身が見つける「第六の幸福」があるという哲学的な曲である。

第三部は、10人の猫に扮した学生の音楽を背景にした喜劇であった。素養のある女学生のレベルの高い寸劇であった。

「Mr インテレディブル」はディズニー映画のJAZZ的音楽で、面白く聴かせた。

最後の三つの曲は、夫々映画の主題歌の編曲であり、「森の熊さん」、「人世のメリゴーランド」を
含み、全ての楽器音が競った。

目を閉じて、聴こえて来るファンタジィーに、強く、青春や若さの力が蘇って、時を忘れて楽しんだ。
皆んな有難う!

音楽を感じる以上に、若さ、青春の素晴らしさを痛感した演奏会であった。

新日本フィル第538回定期演奏会を聴く

2015.3.27  すみだ トリフォニ―ホール

演題  J.S.Bach

管弦楽組曲第3番 ニ長調 BMV1068

管弦楽組曲第2番 ロ短調 BMV1607

   アンコール:7曲のバディヌリー


管弦楽組曲第1番 ハ長調 BMV1066

管弦楽組曲第4番 ニ長調 BMV1069

   アンコール:3番の3曲のガヴォツト
          2曲のG線上のアリア

指揮:マックス・ポンマー

演奏:新日本フィルハーモニー交響楽団

  < フルート奏者:白尾彰>                新日本フィルハーモニー首席奏者)





べ-トーヴェンは、「バッハは小川ではなく大きな海だ」と感嘆したという。

バッハは音楽の父と称されたが、音楽の源流を構築した彼を、マタイ受難曲、クラヴィア平均律、ゴールドベルグ変奏曲、ブランデンベルグ協奏曲等により、私はBachを理解していた。
しかし、今回の管弦楽組曲全体を聴き、大海であるBachの大きさと、その深さを知った。

今般の、J.S.Bachの聖地であるライプツィヒ出身で一時代前のスタイルを斬新に聴かせてくれると高い評価の正統派であるマックス・ポンマーの指揮による演奏だからであろうと思う。

管弦楽組曲は、オーケストラの為の組曲の意味で、序曲、舞曲を主とする小曲が続く構成を持つ。
しかし今回の組曲をBachは、「序曲に始まる作品」という名称で発表した。この曲が従来の組曲の伝統に沿っていないからである。

第2組曲と第3組曲が演奏の回数が多いそうだが、第2組曲はフルートがソロ的な曲で、独奏の協奏曲二近い形式でマリーア・ゾフィーの死を悼み衝動的に作曲された。
私は、1986年小澤征爾の指揮によるMozartのフルート協奏曲第1番で、若かりし白尾彰の演奏を着ている。
今や白髪の白尾氏は、見事な音を響かせた。サラバンドやメヌエットが印象的であった。

第3組曲は「G線上のアリア」として、有名であり親しみの多い曲であった。最後のアンコール曲でも聴かせて頂いた。素晴らしいBACH DAYであった。




2015年3月16日月曜日

岡田将 inリベルラ ピアノコンサートを聴く

2016.3.15    リベルラ(石神井公園)



奏者:岡田将(ピアノ)

演題

 第一部(14:00開演)

 ブルグミューラー: 25の練習曲より

 リスト:ラ・カンパネラ
    ハンガリー狂詩曲第2番他

 第二部(16:30開演)

 ベートーヴェン:ピアノソナタ/テンペストOP。31

 リスト: バッハの名による幻想曲とフーガ  他

1999年リスト国際ピアノ・コンクールで、日本人初の第1位を受賞、リスト、バッハ、ショパンを主体に国際的活躍をしている当人の演奏を18名限定の「リベルラ」で拝聴した。

私は、2013年12月に藤沢で、岡田のシューベルト、シューマン、リストを聴いた(私のクラシック音楽の旅そのⅡ参照)その時は、はるか離れえた客席からであったが、今回は2メートルも離れていない右真後ろの同床で聴いた。

演奏前少々雑談する時間があり、どこで聴けばいいかと聞いたら、ピアニストのイスを指して,<ドウゾそこで>と、ニヤリ笑った。ユーモアな人だ。お客が皆帰るからと私は辞退した。

見るととても手が大きい。指が長い。ショパンはビロードの指といわれた手で弾いた事を思い出して、岡田の手の大きさと指の長さを聞いたら、リストの手型とくらべたことがあり、大きさと指の長さが全く一緒だったそうだ。彼によると指は、これ以上長くなると鍵盤に合わせにくくなるということであった。

第一部はブルグミューラーの楽譜を手にしながら、彼の話からはじまった。ブルグミューラーは1806年の生まれで練習曲は中級教則本書として定番であるが、夫々標題がついている。
「おおらかな(正直な)心」、「貴婦人の乗馬」「アラベスク」「パルカロール(舟歌)」「タランテラ」「家路」を目にも留まらぬ指の動きから生まれ出る正確なタッチで紡ぎ出した。私は息を飲んで、見て、聴いた。

目前の音は、コンサートホールで聴いている音と、まるで違って、各音が私の骨の芯に叩き込まれて響いているように感じた。ペダルを踏む音が同時に身体に入ってくるのに驚いた。
ピアニスト達は、日頃このような音で音楽を聴いているのであろうか。今日のスチェーションは、昔王侯貴族が楽しんだ宮廷音楽の様だと思い、モーツァルトを聴くマリア・テレシアになった私を想定し密かに微笑んだ。

続くリストの「ラ・カンパネラ」と「ハンガリー狂詩曲第2番」は、2013年に藤沢市民会館で聴いたと同じ演題であった。
狂詩曲は演奏者の即興精神や情熱が聴衆に伝えられる手段で、普遍的だ。
特にハンガリーの旋律に魅せられ、これから霊感を得た者は、ハンガリー人のリストだけでなく、ブラームス、ハイドン、シューベルトがいる。ジプシー・スタイルと都会風の民族音楽の集積であったらしく、さらに現代のJazzに繋がっている。

放浪の自由、ロマンチックな気分の高揚、旋律の束縛放棄は、リストの性に合っている。
この「ハンガリー狂詩曲」をリスト・コンクール優勝者の貫録と安定感で溢れる見事な音楽で岡田さんは弾いた。全身が舞って聴く者をリストに近づけた。

アンコールは、モーツアルトの「キラキラ星」を聴かせた。そして更に彼が現在取り組んでいるベートーヴェンの「ハイリゲンシュタットの遺書」にふれ、死の直前に書かれた2度目の遺書の内容を説明され、ピアノソナタ31番を弾いた。死の3日前の日に書かれた第2番目の遺書には、<聴く人を楽しませることに音楽の意味がある>としているが、岡田さんは同時に作られたこの曲が好きらしく、明るく響かせて弾いた。私は最後の32番を良く聴いているが、彼は最後の曲については言及しなかった。

更に彼の好きなベートーヴェンの曲として、三大ピアノソナタとワルトシュタインをあげ、2年がかりで全32曲を演奏中であるとの説明を受けた。私は、かってバレンボイムがサントリー・ホールで8日間で32曲全曲(1か月を要した)を演奏したことがあり、通って聞いた思い出を話したら、岡田さんは、その体力は素晴らしいと驚かれた。

第二部は、ベートーヴンの「テンペスト」から始まった。命名は弟子のシンプトラーに、ベートーヴェンが<シェックスペアのテンペストを読め>と言ったということから由来している。第3楽章が有名である。岡田さんは,この曲を強く賛美されていた。

以下の感想は、私の勝手な幻想であるが許されたい。

テンペストは、シェクスペア最後の戯曲で、観客を喜ばせて静かに舞台を去る作家を彷彿させる戯曲であり、Beethovenがハイリゲンシュタットの遺書を書いた時期であり、自分の心境を暗示したのかもしれないと思う。
その悲しみは曲のなかに流れている。ベートーヴェンの手記の一節に書き留められたミュラーの詩があるという(ロラン・マニュエルの「音楽のあゆみ」より引用)

  生は音楽の振動に似ている。
  そして人間は弦の戯れに、
  もし強く撃たれすぎると、
  その響きを失ってしまい、
  二度と鳴らなくなってしまう。

でも、ミュッセはいう。

  絶望のいや果ての歌こそ、こよなく美し・・・。

ドヴィッシ―の「ミンストレル」について、演奏前の岡田さんは説明した。<ミンストレルは「道化師」の意味です。ドヴィッシ―の一音は、考え抜かれた末の一音の積み重ねです。この曲はサーカスの二人の心の動きを見事に捉えています>と。そして、鮮やかな指の動きで、ややコミカルに弾き終わった。

帰宅してから、ドヴィッシ―について、幻のピアニストといわれたリヒテルにドヴィッシ―の前奏曲集についての評論があったことを思いだした。調べると面白い。蛇足として書かせていただく。以下は巨匠リヒテルの言である。

全部で24曲のドヴィッシ―の前奏曲の内、私が弾かない曲が2曲ある。「ミンストレル」と「紫色のあばたの肌」だ。白人が黒人に扮したり、あばたは嫌だ。ルノワールの裸婦の絵のようだし、亜麻色の髪の乙女の髪が生肉の灰色であるように私向きでない。(注;リヒテルは絵画に詳しい)

ついでにブレンデルは、<ハンガリア狂詩曲」には、音色に、鋭く暗い光を放ち、微妙にうすれてゆく無数の陰があって、それが発見されるのを待っている。>という。

私は、芸術の多様性を思い、勝手な自分なりの感覚で、過ごせればと願うのみである。

最後は、「バッハの名による幻奏曲とフーガ」で、リストがピアノ用に編曲したものである。リストのバッハに対するオマージュであろう。ペダル扱いの難しい曲らしいが、私には分からない。
岡田さんは、B、A、C、H 音がこの曲に配分されていると解説され、キーを弾いて示された。

アンコール曲は、司会者が聴衆からでたリストの「カンパネラ」であった。私はBachの「サラバンド」が今日の最後に相応しいと思ったが、疲れ果てている岡田さんには言えなかった。

リサイタルが終わりテーブルを囲んでワインで団楽の時、私は<ベートーヴェンの32曲演奏の挑戦のあとは、どちらへ向かう積りかを聞いた。しばらく考えた岡田さんの返答は、<ブラームスです。>であった。

私は彼の心境を理解した。ブラームスの交響曲第1番は、べ-トーヴェンの最後の曲第9交響曲の後書かれた最も優れた曲である(ハンス・ビューロやヘルマンによる)。即ちドイツロマン派の集大成をブラームスが行っているのだ。ベルリン芸術大学で学び、音楽を取得した岡田さんがベートーヴェン全曲演奏の途上に、次はブラームスを目指すのは、私には当然の帰結のように感じた。



 
あまりにも実りの多い演奏会であった。企画された関係者と、「リベルラ」に感謝し、駄文を終えたい。









 












2015年3月13日金曜日

閑話休題: [わが恋、わが歌」1969年制作の映画を観て

2015.3.12   鎌倉市川喜多映画記念館

演題:「わが恋、わが歌」



出演;中村勘三郎・・吉野秀雄(詩人)

    岩下志麻・・後妻(詩人八木重吉の未亡人)

    中村賀津雄・・長男(病身・狂気の画家)

    竹脇無我・・次男(父に反目する作家)

    北村早苗・・長女(父に反目し結婚)

    八千草薫・・先妻〈若くして死去)

    沢村貞子・・母

    緒方拳・・吉野の生徒で崇拝者

音楽;いずみたく

監督;中村登


詩人吉野秀雄の一生を、彼の哀しみの抒情詩を背景にしながら繰り広げ描いた映画である。

1969年の芸術祭参加作品であるが、この映画の存在を私は知らなかった。吉野の「やわらかな心」と教え子山口瞳の「小説吉野秀雄先生」、更に次男の「歌びとの家」の三つから脚本化されたという。

演題の「わが歌」の歌はミュージックの意味ではなく、詩(ボエーム)である。「わが愛」の「愛」はいわゆる男女の恋愛ではない。すべてに対する人間愛であろう。

そして映写の進行につれ、吉村秀雄の魅力溢れる人間像に私は涙した。物語の筋を述べることは易いが、今は本筋ではないので省略する。


吉野の人生・人間愛に、いつか忘れ去られている<大正ロマン>の本流と,あるべき人間の<純粋な像>を、私は、観た。

私は、音楽鑑賞で得る感動と同じものを感じた、「クラシック音楽の旅」だけが旅ではない事、感動は日常的に身近にあり、それは自身を純粋に保つことから生まれ、凛とした生き様につながるのではないかと思う。

「万物に対する愛」を抱けないものか?その時にこそ、大きな憎悪であれ何処かに消え失せるのではないかと。憎悪は愛のアンチテェーゼではないのだ


四面楚歌の家族なかで、吉野秀雄は、大いなる人間愛を貫いてゆく。その姿の哀れと美しさ。この映画をみる全ての人に感動が自然に生まれるだろう。
劇場を去る初老の夫婦が,<久しぶりで映画らしい映画を観たね>と話しているのが聞こえて来た。<私も・・・>と呟いで振り返った。

寒い夕空に、あかね色の雲が輝いているのが見えた。陽炎の哀しみはなく、明るく輝いていた。「わが恋、わが歌」の時代は終わったのだ、自己喪失の近年の世相と対比しながら。私は繰り返し自問した。「終わったのか?」










 


2015年3月7日土曜日

N饗定期演奏会第1813回を聴く

2015.6。17  サントリーホール

演題:チャイコフスキー・ピアノ協奏曲 第1番  変ロ短調OP23

    ラフマニノフ・交響曲第1番 ニ短調 OP。13

指揮;尾高忠明

ピアノ;k小山実雅恵

N饗定期演奏会第1810回を聴く

2015.5.20   サントリーホール

演題:シューマン・「マンフレッド」序曲 OP。15

   メンデルスゾーン;ヴィオリン協奏曲ホ短調 OP。64

   ブラームス;交響曲第2番二長調 OP。73

指揮:デーヴィッド・ジンマン

ヴィオリン;ギル・シャハム

N饗定期1807回をきく

2015.4.22  サントリーホール

演題:シューマン・;ピアノ協奏曲イ短調 OP。54

   ブルックナー・交響曲第4番 変ホ長調 「ロマンチック」

指揮:ミヒャエル・ザンデルリング

ピアノ;ベルトラン・シヤマル

2015年3月4日水曜日

作曲家:武満徹の美学を想う

武満徹の美学
 


 

                               
 演題Ⅰ[ノヴェンバー・ステップ]
 

 指揮:小澤征爾

 演奏:トロント交響楽団


鶴田錦史(琵琶)
横山勝也(尺八

  

演題Ⅱ 弦楽のためのレクイエム

    
指揮:若杉弘  演奏:読売日本交響楽団  

 
演題Ⅲ ピアノと管弦楽のための弧 第1部 第2部

 指揮:岩城宏之  演奏:読売日本交響楽団


打楽器奏者の吉原すみれさんが、2014.11.21に東京・初台のオペ ラシティで武満作品集のリサイタルを開催するという記事を読んだ。

私事で恐縮だが、30数年前のこと、当時このオペラシティの設置と運営に奔走していた知人から、館長を誰にするかとの相談を受けた。私は武満徹さんが最適だと強くアドヴァイスした。武満さんが、日本の文化を世界に発信できる最適な人であり、このホールがその一端を担うことを説いた。

交渉は不調に終わり実現しなかった。ただコンサートホールはタケミツ・メモリアルと名ずけられた。その経緯はよく知らない。完成してオープン前の2階中央客席に座りながらの話であった。
オペラシティで武満特集という組み合わせが、忘れていた過去の些事を思い出させた。私には奇縁に思われる。

演題 Ⅰ  (ノヴェンバーステップ)


さて、1967年、「ノヴェンバー・ステップ」を初めて聴いた時の衝撃は忘れられない。
私はLP盤で聴いたが、小澤征爾の指揮するトロント交響楽団の演奏のなかに、武満が世界に通じる東洋の音楽を樹立したことを確信した。尺八と琵琶を取り込んで、東洋的な自然への憧憬と,清寧を見事に表現していると思った。
この曲では、特別の旋律的主題が無い。西洋音楽の音は水平に歩行するが、尺八の音は垂直に樹のように起る。邦楽の音はそれ自体が完結し、旋律は「間」によって関係づけられ調和している。
日本人である私には、それがよく分かるのである。

武満は言う、「生きることと死ぬこと、自己と他、個と全体、さらに厄介乍ら西洋と日本などという二律背反を肩に振り分けて歩く。真昼でも闇夜でもない薄明かりの長い道を歩いている訳だがそれはさほど単純な道程ではない」と。(武満著:「私たちの耳は聞こえているか」より引用)

武満には、日本と西洋という二律背反の中で、西洋に同化するのではなく、日本的な音楽を確立するという命題があった。
私の理解できる範囲で、次のような見解を述べている。興味深い武満語録を列記する。

  • 私は諸文化が収斂して、一つの束を作ると思う。そう期待する。西洋の楽器を使って、私は新しい日本の音楽を創り出そうと思う。
  • 西洋の音楽は論理的で弁証法的です。音は互いに関係しあって構成されています。しかし日本では、たった一音で、すでに音楽「そのもの」なのです。その音は自然を内包しうるし、時間とともに存在しているのです。 できることなら、琵琶を弾ける時代が続けばと思います。然しそれは出来ない相談です。そこで楽器の精髄を温存し、音色の本質を把握し、その音色を他の方法で表現するように努めなければなりません。

 

  • 石の摩擦が爆弾や原子力よりもはるかに創意に富んでいることを分からせることです。
  • 日本の能では、長い沈黙で打つ鼓があります。ある音の終わりと次の音の始まりとの間には、一つの持続があり、その持続のお蔭で音の変化が知覚されるのです。沈黙は音そのものなのです.
さらに武満はいう。「歌が生まれるのは、沈黙と、そして沈黙の中で最も恐ろしくてもっと絶対的なもの、すなわち死と向き合うためなのです。音楽には常に沈黙がたちこめています。音楽が私を悲しい気持ちにし、また感動させるのも、おそらくそのためです。」と。 (「音、沈黙と測りあえるほどにより引用)

これらの強い思考は、武満の音楽に耳を傾ける時、なるほど!とよく理解できるのだ。「ノヴェンヴァー・ステップ」を聴いた時、私は東洋人であることが自覚できた。この音楽に表現される「間」の感覚の心地よさに、日本の禅を想定させる静寂があり、東洋の美学と清澄な宇宙を感じたのである。

演題 Ⅱ  (弦楽のためのレクイエム)


「弦楽のためのレクイエム」は、なんという鋭敏な感受性に満ちた音色の曲だろう。この曲には武満の内部に存在する声が終始聴こえる。故早坂文雄に捧げられたレクイエムだが、そこにはドラマティックなクライマックスもなく、沈黙につながる単調な旋律で終わる。

1959年に来日したストラヴィンスキーが、偶々この曲を聴き、「この音楽は実に厳しい、このような厳しい音楽があんな小柄の男から生まれるとは・・・」と絶賛して、一躍有名となった。又ハチャゥーリアンは「この世の音楽ではない例えば深海の底の様な音楽」と評した。

私は、武満の音楽表現だけでなく、かれの文章に東洋的美学を感じる。作家大江健三郎は武満の文章を、およそ同時代の芸術家によって書かれた、最上の文章であると賛美している。

例えば、「私にとって世界は音であり、音は私を貫いて世界に環のように続いている。私は音に対して積極的な意味づけをする。そうすることで音の中にある自分を確かめてみる。それは私にとって、もっとも現実的な行いだ。形作るというのではなく、わたしは世界へ連なりたいと思う。」
「世界はいつも自分の傍にありながら、気づくときには遠くにある。だから世界をよぶには、自分に呼びかける他にはない。感覚のあざむきがちな働きかけを避けて自分の坑道を降りることだ。その道だけが世界への豊かさに通じるものだから。」武満の美学の根底を見出すことが出来よう。

彼の美学は、作曲の楽譜にもあらわれていて、驚いた。「ピアノと弦楽のための弧 第一部」は3楽章からなる。まず楽章の命名が美しい。
1.Pile(パイル)
2.Solitude(ソリチュード)
3.Your love and the Crossing   である。
小説の題目みたいだ。さらに驚きは、彼の作曲楽譜(手書き)だ。まるで抽象画だ。クレーの絵,またはミローの絵図のようだ。こんな手書きの五線の楽譜を描く作曲家が過去存在したかどうかは、寡聞にして知らないが、凄いと思う。(3.Your love and the crossing)




かれの譜面を親友谷川俊太郎は「顕微鏡的な綿密さで、丹念なレース編みのような美しさ」と評する。

私は、過去に「音、沈黙と測りあえるほどに」、「音楽を呼びさますもの」、「私たちの耳は聞こえているか」の3冊の著作を読んいる。挫折を経験した頃だ。
今再読してみると、彼は音楽を語る以上に、人間(彼自身)の実存を語っている。中身が見事である。ありふれた哲学のきまり文句は皆無であり、自由の内に自らを律する基準を持つ者の沈黙を感じる。







演題 Ⅲ  (ピアノと弦楽のための弧)

武満と親交の厚かった詩人:瀧口修造が、「ピアノと弦楽のための弧」を聴き、武満に宛てた私信は、詩人の心が、この音楽の特質を見事にとらえていると思う(船山隆:「響きの海へ」より引用)


弧について・・・・

<弧のうちそと、というよりも、弧のあとさきをおもうほど

 私をとらえるものはない。
 今夜,「弧」を聴く。
弧とは星屑のように 降りそそぎ、噴出し、流れだし 消えてゆく
身動きの音そのもの、いや 不在の音というものか
そう思っているとき、一瞬、悔恨のようなものがわたしをとらえる。
引きしぼった弧から ひとつの矢が走り出すだろう
 それはもうひとつの弧を描いて 消えるだろう。
いや、すぎていった体験だけが 私にのこる

死のように 樹木の戦慄のように。
武満徹の手が しだいに影絵のように小さくなり 
ついに見えなくなったとき あなたが そこにいる。>

 武満徹の美学は、東洋の美学を世界に知らしめているようだ。
 今私は畏怖の念を抱きながら、海底の深みをみるような彼の音楽を味わっている.